PROFILE
南部虎弾プロフィール
南部虎弾(電撃ネットワーク)、本名佐藤道彦(1951年7月14日)山形県鶴岡市生まれ、鶴岡南高校卒業、高崎経済大学中退、後に除籍。
一般社団法人腎臓移植ネットワーク 代表理事
南部です。一般社団法人腎臓移植ネットワークを始めました。
自分が今、こうして生きていられるのは腎臓移植手術に成功したおかげです。
でなければ、一生透析を続けなければならなかった訳です。
透析はご存知の通り腎臓の治療ではなく、むしろ延命治療です。
こんなに医療が進んでるはずなのですが、日本では腎臓移植に対して知識、認識が低く世界でも、とても遅れているのが現状です。
今も透析で苦しんでる方達が大勢います。
そこで、子の自分でもできることがないかと、腎臓移植の先生とそうだんして、腎臓移植ネットワークの輪を拡げる活動をすることにしました。
周りに透析で苦しんでる方がいらしたら、ご連絡ください!
必ずお役に立てるはずです。
現に活動していて透析の患者さんに会いに行ってます。
応援もよろしくお願いします!
フランスパリに憧れ、高校時代からフランス語を勉強、高崎経済大学中退後、全ての荷物を下宿に残し、二十歳でシベリア鉄道モスクワから電車でパリへ。
ボランティアグループ「エマユス」で活動、職業を持って永住したいと思い、帰国後お金が無かったので、音楽舞踊団「カチュウシャ」に入団、即舞台へ。
集団生活を町田で始める。2年後退団。テアトルエコー養成所をオーディションで入団。
そこで、中村ゆうじ、コント赤信号の渡邊さんと知り合う。
養成所で先生の悪口を言い、クビになる。
オーディションで黒澤明監督の「影武者」に合格。セリフを一言頂く。
そのセリフは、「それにつき妙な噂が流れておるぞ。」この一言のセリフを一年間練習した。
役柄は雑兵D。
これを切っ掛けに「番衆プロ」に合格。
南部虎弾の名付け親は、そのプロダクションの主宰「市原悦子」
そこで意見があるか?と言われ、レッスン料が高いですと言いクビになる。
そこでテレビに出ていた「コント赤信号」に会おうと思い、渋谷の「道頓堀劇場」に訪れる。
そこでコントをやっていた「杉平助」さんにステージに上がれと言われる。
断ったが無理矢理あげられ、そこでウケたので、コントと言うのは、台本があればウケるんだなと気が付いた。
そこでコントをやっていた「肥後克広」、やはりコント赤信号を訪ねていた「テアトルエコー」の後輩、上島竜兵、寺門ジモンと、4人でグループを組んだ。
当時グループの名前は「キムチ倶楽部」。
テレビに出る事になったが、放送しにくいと、名前を変える。
飛べない、地上を走るしかない、頭の形が汚らしい、そのダチョウのイメージを変えるのに、衣装を派手にした。
名前は「ダチョウ倶楽部」だ。
六本木のバナナパワーで、コントを始める
パイ投げで有名な店だった。
一日3回のステージ、毎回パイだらけになる。
当時一緒だったお笑いタレントで、「チビッ子ギャング」「パワーズ」「怪物ランド」「B21スペシャル」が入れ替わりで出ていた。
それからテレビ朝日の「テレビ園芸」の10週を勝ち抜き、テレビによく出るようになった。
その頃、「太田プロ」に入り、やっと「北野武さん」に会う事が出来た。
その当時「太田プロ」には、北野武さん、片岡鶴太郎さん、山田邦子さんが、いらっしゃった。
ある日、「オールナイトフジ」を見ると、とんねるずが暴れまくっていて、カメラを倒した。
そのカメラの弁償代を、とんねるずが払うのか、とんねるずの事務所が払うのか、制作会社が払うのか、テレビ局が払うのか、問題になった。
その金額は、なんと2,000万円。確かその金額はテレビ局が払った気がする。
力があれば、テレビ局が面倒をみてくれるんだなと思った。
そこに、ダチョウ倶楽部に話が来た。
フジテレビの「ひょうきん予備校」という番組だった。
島田紳助さんが先生となり、色んなタレントさんが講師として来る。
そこの生徒の、一番前の席はデビューしたての「ダウンタウン」だった。
先生に色々面白い質問をして盛り上がるという番組にだったが、ダウンタウンには負けられないと決意を決めて質問をした。
二、三回目に「タモリさん」が来た。
一番最初にした質問は、「タモリさんはお笑いの帝王と言われていますが、お笑いらしい事やっていないのに、おかしくないですか?」という質問だった。
タモリさんはいつもの口調で、「君面白いねぇ、君なんていうの?」と聞いて来た。
そのせいか、番組が終わってから、その当時のプロデューサー「横澤毅さん」が、僕の背中をポンと叩いて、「君はどんどん失礼にやったほうが良いよ」マネージャーも「どんどん失礼にやった方が良いよ」と言ってくれた。
その後に、ゲストに来た講師が「山本晋也監督」。
ダウンタウンに負けじと、質問した。「山本監督は監督監督と呼ばれていますが、どんな作品を撮ったんですか?知らない作品ばかりで、監督と呼ばれるのはおかしくないですか?」
怒った山本監督が、「このやろう、トイレに来い!俺が監督になったのは、ケンカが強いからだ!」それは全部カットになった。
失敗だった。生放送だったらよかったのに。
そのあたりから、雲行きが怪しくなって来た。
アイツはヤバいよ。みんな声を掛けてくれなくなった。
その後に来た講師が、クレイジーキャッツの「ハナ肇」さんだった。
ひょうきん予備校は、始まりがわざとダラダラと歌うのが、風習だったが、ハナさんは真っ赤な顔をして怒って入って来た。
「ふざけるな!お前ら!!!俺たちがどんな気持ちでテレビを盛り上げて来たのかわかってるのか!!!面白くなくてもワハッハッハッハ!と言って、笑って盛り上げて来たんだよ!ふざけるな!!!」
俺はすかさず手をあげて質問した。
「ハナさんて意外と真面目なんですね。」ハナさんはさらに激怒した。
「お前は誰だ!!!どこの事務所だ!!!」紳助さんが慌てて「おい!ダチョウ!みんなフォローしてやってくれ!」
ダチョウは言った、「僕らは知りません」、そこから大きな亀裂が出始めた。
ある日テレビを見ていたら、三人だけ出ていた。
マネージャーに「今日起きれなくてすみません!」マネージャーは「いいんだよ、それで、これからは三人でやって行く事になったから。」
それから俺は太田プロを辞め、晴海の展示場で大工のアルバイトを始める事にした。
そこで見付けたのが、大きな「ダンナ小柳」と、後ろでアルバイトに指図をしていた「ギュウゾウ」だった。
そこから、「電撃ネットワーク」が始まった
晴海の展示場で、業者の残していったドライアイスをペットボトルに入れ、熱湯を入れ蓋をしてみた。
そのペットボトルが膨らんで爆発して蓋が吹っ飛んだ。
その蓋が人の足に当たり、骨折した。
それが、電撃ネットワークの、後のネタになる。
初めのうちネタが無かったので、ダチョウ倶楽部当時のネタをやっていた。
NHKの真前で、刀を振り回したり、ネタをやっていた。
その当時、パフォーマンスの企画の神様と呼ばれていた「桑原茂一」に会いに行った。
そしたら、日曜日の川崎のクラブチッタでパフォーマンスをやってるから、そこでやってみたら?と言われた。
川崎クラブチッタは閉まっていた。
その周りが、市場みたい賑わっていた。
そこでやれと言う事か。全く反応が無かった。
その時は、「ダンナ小柳」と2人だった。
そのうち、渋谷の「阿吽」というショーパブを紹介された。
どこへ行っても、お笑いの芸人たちに、「卑怯者」と呼ばれれた。
「阿吽」の楽屋で、ある日ダンナ小柳が風邪を引いたせいか、くしゃみをした。
その鼻水が目から出た。
「それをステージでやってみようよ。鼻水だと分かりづらいからミルクでやってみようよ。」
その頃に「阿吽」で漫才をやっていた「三五十五」が加わった。
ダンナ小柳の目から牛乳は凄まじかった。
阿吽に来ている男の客は、ひっくり返って笑っていた。
情勢の客は、目で隠しながら汚い物を見る様に、目で塞いでいた。
これからはこれだ。
俺は、そう思った。
ダンナ小柳の「目から牛乳」が、電撃ネットワークの初めのネタだった。
それから、そんなネタばかり考えた。
オナラを燃やしたらどうなるんだろう、正露丸を人瓶飲んだらどうなるんだろう、消化器を浴びたらどうなるんだろう。
そんなある日、とんねるずが司会のアールナイトフジから電話が掛かって来た。
俺たちは、その頃の「B21」のようなスマートな格好良いコーナーや、ダチョウ倶楽部のような瞬間芸に出たいと思っていたが、来た話はゴングショー。
際物のショーをやって、女の子達が点数を決めて、そのお金を貰うというゴングショーだった。
そのコーナーの司会は田代まさし。
その時のネタは、ミミズを食ったり、目から牛乳、オナラ燃やし、そんなネタでこれっきりという約束で出たのだが、その反響が凄かった。
「おもしれぇじゃねえかという意見が300、なんでそんなことをやるんだという批判の声が300」
俺たちは、その反響の大きさに心が動いた。
ある日、ギャネットジャクソンがゲストに来ていた時、その頃は黒塗りの黒人の格好をしていた。
ジャネットジャクションは言った、「アイツらは黒人を侮辱している。」エライお怒られた。
そんな事もあったが、結局、半分レギュラー化したようなものだった。
そんな風にして、電撃ネットワークの躍進劇が始まった。
この続きは、また次回。